延命地蔵尊
枕返し地蔵と石神大権現
当山のご本尊として安置されていた「枕返し地蔵」は霊験あらたかな秘仏であります。この地蔵尊が本地仏としてはたらきを表したのが
、石神大権現であるといわれております。武蔵夜話の中に「地福寺の後に山あり。この山に大木の樫あり。その根におしくじんと称して
頭痛、咳嗽(せき)など癒えんことを祈祷する石あり。即ち古代の石剣なり。この剣生きたる如く地出すること一尺三寸・・・」という記述
があります。石神大権現の創設はわかりませんが、おそらく江戸初期と思われます。当時礼拝されたお礼の木版、石神大権現絵図木版は、
今も残っています。祭礼の行事も盛んであったようで、古老の話では、毎月三の日には門前市をなし、祭りの旗が立ち並んでいたという事です。
なお、このほど、枕返し地蔵尊は関東百八地蔵霊場の第七番札所に定められ、多くの方々が参詣に訪れて、ご朱印帳を授けるようになりました。
尊恵僧正と地蔵菩薩
いまから千年前の永延年中(平安末期)、天台宗の僧である尊恵僧正が地蔵菩薩のお告げにより、多くの寄進を仰いで地福寺を建てたと
言い伝えられています。比企郡幾川村慈光寺の名僧忠尋に会うため川越街道を旅しておられた尊恵僧正は白子の宿まで来たときに急な病で
倒れてしまいました。仮死状態のままで三日が過ぎた頃、白衣の童子を引き連れた地蔵菩薩が現われ、「尊恵上人は明朝生き返る」との
お告げのとおり、北枕であった僧正が不思議にも頭を西に向け、程なく蘇生されました。右手にしっかりと地蔵菩薩を抱き「夢に閻魔王界
に入り法華経十万部供養の導師をした。悪事を働いたものが閻魔王庁で罪科の軽重を定められる事も見てきた。」と、村人達に詳しく説明
したのです。地蔵菩薩が現れたとき、光の走った方向を百光、百向、瑞光などといって、成増に今も地名が残っています。村人達から寄進
を受けて建てたお寺には、おつげに現われたとおりの地蔵菩薩を彫刻して安置しました。僧が生き返ったときに手を握っていた小さな一寸ほどの
地蔵菩薩は、その木像の体内に安置し、長く寺の本尊としたと言い伝えています。現在本堂のご本尊である阿弥陀如来も、古くは地蔵菩薩であった
という事です。