寺紋瑞應山地藏院地福寺

境内1

地福寺縁起


中興の祖(一五三二年)

本堂内

開山・尊恵僧正亡きあとは、尊勝を経て長い間住職の いない寺であったと伝えられます。その後、後奈良天皇の天文年中に荒れていた本堂を建築し、あるいは 諸堂を修理して中興の祖と仰がれる尊秀権大僧都が継ぎ、立派に当時を復興したと 言い伝えられています。 次に豪慶、豪海、尊祐、祐海、広海、慶海、珍海と続いていきましたが、 珍海上人のとき(寛文年中)に鐘楼堂建立を発願して、千日間御堂にこもり、檀家から広く浄財を募り、 ついに立派な鐘楼堂を建設したといわれています。 珍海上人が千日間おこもりをした事から、現在鐘楼堂の下に建っている千日堂の 名が残っています。 珍海上人亡き後、千日堂はその後代々の住職の隠居所にあてられていたので、 ここに住む人を「隠居さん」と呼ぶようになりました。珍海上人から義覚、雄覚に至り、 元禄年中に火災があり、寺院諸堂はすべて焼失してしまいました。 当時の文献に「鐘楼破れて音声なし」と出ています。
・念願の諸堂宇落成
雄覚から浄弁、弁清、乗弁、亮因と続き、亮因上人の延享四年に焼失大破した鐘楼を 再鋳しようと発願、再鋳したのが太平洋戦争中に献納した梵鐘です。 この鐘には「梵鐘壱個壱百拾貫八百九拾五匁、外経二尺二寸三分」と刻まれており、延享四年 一二月当時一六世亮因敬白の銘がありました。
また、発願者のなかに観音寺、中里東光院、満正寺、久城寺、西福寺とあり、 作者は「江戸神田住粉河市正、藤原宗次作介之、施主千日結衆道心五人、 金番一二三〇余人、奉加施四一〇〇余人、当村念仏講中四十余人、 同庚申待講中九人、其他組頭十人、当時壇中、赤塚檀中及代表施主六十一名」 と刻まれていました。この鐘については新篇武蔵風土記稿にも掲載されています。 なお、昭和二十九年に、当時の総代故原田安五郎氏以下の役員、檀信徒が打って 一丸となって立てた鐘楼堂は偉容を誇り衆目の的となっています。 故人となられた金子達伊棟梁の腐心の作でした。 昭和五十六年十二月に、旧庫裡をとりこわし、檀信徒の全面的協力で新たに 念願の大玄関、客殿それに庫裡が完成。また、比叡山開創一二〇〇年を記念して昭和 六十二年初春に「一隅碑」が見事に建立され、内外の絶賛を浴びました。 そして今回、全山を一挙に変貌させる本堂、客殿、山門再建の大事業が寺檀の総力を結集して 遂行されたのであります。
・白子の由来
地福寺がある白子(しらこ)の地名については、諸説あります。 地蔵菩薩が引き連れた白衣の童子の上下の文字をとって白子としたといわれ 、またこの土地は昔、朝鮮からの帰化人が多く、白楽木(しらぎ)がなまって 白子となったといわれています。