天台宗 瑞應山地藏院地福寺
Tendai-sect Jihuku-temple
地福寺縁起
法灯千年
尊恵僧正と地蔵菩薩(寺伝)
今から千年前の永延年中(平安末期)、 天台宗の座主尊恵(そんね)僧正が地蔵 菩薩のお告げにより、多くの寄進を仰いで地福寺を建てた と言い伝えられています。比企郡都幾
川村慈光寺の 名僧忠尋に会うため川越街道を旅しておられた尊恵僧正は白子の宿まで来たとき 急な病で倒れてしまいました。仮死状態のままで
三日過ぎたころ、白衣の童子を引き連れた地蔵菩薩が現れ、「尊恵上人は明朝生き返る」とのお告げのとおり、北枕であった僧正 が不思議
にも顔を西に向け、程なく蘇生されました。右手にしっかりと地蔵菩薩を抱き「夢に閻魔王界に入り法華経十万部供養の導師をした。
悪事を働いた者が閻魔王庁で罪科の軽重を定められる事もみてきた」と、村人達に詳しく説明したものです。地蔵菩薩が表れたとき、光の
走った方向 を百光、百向、瑞光などといって、成増に今もその地名が残っています。村人達から寄進を受けて建てたお寺にはお告げに表
れたとおりの地蔵菩薩を彫刻 して安置しました。僧が生き返ったときに手に握っていた小さな一寸ほどの地蔵菩薩は、その木像の体内に安置し、
長く寺の本尊としたと言い伝えられています。現在 本堂のご本尊である阿弥陀如来も、古くは地蔵菩薩であったということです。
地福寺の成り立ち
地福寺は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ) を総本山に仰ぐ天台宗に属していますが、瑞應山地蔵院(ずいおうざんじぞういん)
を山号院号としているには以上のようなわけがあります。 また寺号については地蔵菩薩は福徳円満で、人々の悩みを断ち、すべてのものを
養育し開運して、福禄寿を授け、父母が子供を養うように大地の万物を育てる 福徳があるという所から、地福寺というと記されています。 ひとくちに千年といっても地福寺の歴史は決して平坦なものではありませんでした。 末寺に満正寺(まんしょうじ)久城寺(くじょうじ)東光院、観音寺がありましたが、 現在は清瀬市の東光院があるだけです。他の末寺の中で牛房の観音寺を除いてはどこに建てられていたか、 全く分かりません。 また、境内には観音堂、千日堂、薬師堂、阿弥陀堂などがあって栄えていましたが、 薬師堂だけはどこに建っていたのか不明です。 しかも、過去幾たびか火災にあい、近しくは明治二年、十九年の火災で全部の御堂を焼失し、古文書や絵図 すべてを失ったといわれています。尊恵僧正が北枕をひるがえして生き返ったところ
から寺の本尊地蔵菩薩を『枕返し地蔵』 といって、江戸時代の中ごろまで近在や江戸の人々から信仰を得ていたといわれております。
中興の祖(1532年)
開山・尊恵僧正亡きあとは、尊勝を経て長い間住職の いない寺であったと伝えられます。その後、後奈良天皇の天文年中に荒れていた
本堂を建築し、あるいは 諸堂を修理して中興の祖と仰がれる尊秀権大僧都が継ぎ、立派に当時を復興したと 言い伝えられています。
次に豪慶、豪海、尊祐、祐海、広海、慶海、珍海と続いていきましたが、 珍海上人のとき(寛文年中)に鐘楼堂建立を発願して、
千日間御堂にこもり、檀家から広く浄財を募り、 ついに立派な鐘楼堂を建設したといわれています。 珍海上人が千日間おこもりをした
事から、現在鐘楼堂の下に建っている千日堂の 名が残っています。 珍海上人亡き後、千日堂はその後代々の住職の隠居所にあてられてい
たので、 ここに住む人を「隠居さん」と呼ぶようになりました。珍海上人から義覚、雄覚に至り、 元禄年中に火災があり、寺院諸堂は
すべて焼失してしまいました。 当時の文献に「鐘楼破れて音声なし」と出ています。
念願の諸堂宇落成
雄覚から浄弁、弁清、乗弁、亮因と続き、亮因上人の延享四年に焼失大破した鐘楼を 再鋳しようと発願、再鋳したのが太平洋戦争中に
献納した梵鐘です。 この鐘には「梵鐘壱個壱百拾貫八百九拾五匁、外経二尺二寸三分」と刻まれており、延享四年 一二月当時一六世亮因敬白の銘がありました。
また、発願者のなかに観音寺、中里東光院、満正寺、久城寺、西福寺とあり、 作者は「江戸神田住粉河市正、藤原宗次作介之、施主千日結衆道心五人、
金番一二三〇余人、奉加施四一〇〇余人、当村念仏講中四十余人、 同庚申待講中九人、其他組頭十人、当時壇中、赤塚檀中及代表施主六十一名」
と刻まれていました。この鐘については新篇武蔵風土記稿にも掲載されています。 なお、昭和二十九年に、当時の総代故原田安五郎氏以下
の役員、檀信徒が打って 一丸となって立てた鐘楼堂は偉容を誇り衆目の的となっています。 故人となられた金子達伊棟梁の腐心の作でした。
昭和五十六年十二月に、旧庫裡をとりこわし、檀信徒の全面的協力で新たに 念願の大玄関、客殿それに庫裡が完成。
また、比叡山開創一二〇〇年を記念して昭和 六十二年初春に「一隅碑」が見事に建立され、内外の絶賛を浴びました。 そして今回、
全山を一挙に変貌させる本堂、客殿、山門再建の大事業が寺檀の総力を結集して 遂行されたのであります。
白子の由来
地福寺がある白子(しらこ)の地名については、諸説あります。 地蔵菩薩が引き連れた白衣の童子の上下の文字をとって白子としたといわれ 、
またこの土地は昔、朝鮮からの帰化人が多く、白楽木(しらぎ)がなまって 白子となったといわれています。