寺紋  天台宗 瑞應山地藏院地福寺

Tendai-sect Jihuku-temple


境内ご案内

六地蔵尊

六地蔵尊

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天界を護るお地藏さまで、現存の石像としては江戸末期の古いものです。

筆塚

筆塚

寺子屋や塾に私宅を開放して師弟の教育に尽力した師に対する報恩の碑で、明治七年五月に建立したものです。師・冨澤氏は白子村名主の家に生まれ、晩年は村内は勿論、広く近在の子弟教育のために活躍され、その数は百名を超えたと言われ、碑の裏側に代表の方々の名前が刻まれています。

延命地蔵尊

延命地蔵尊

当山のご本尊として安置されていた「枕返し地蔵」は霊験あらたかな秘仏であります。この地蔵尊が本地仏としてはたらきを表したのが 、 石神大権現であるといわれております。武蔵夜話の中に「地福寺の後に山あり。この山に大木の樫あり。その根におしくじんと称して 頭痛、咳嗽(せき)など癒えんことを祈祷する石あり。 即ち古代の石剣なり。この剣生きたる如く地出すること一尺三寸・・・」という記述 があります。石神大権現の創設はわかりませんが、おそらく江戸初期と思われます。当時礼拝されたお礼の木版 、石神大権現絵図木版は、 今も残っています。祭礼の行事も盛んであったようで、古老の話では、毎月三の日には門前市をなし 、祭りの旗が立ち並んでいたという事です。 なお、このほど、枕返し地蔵尊は関東百八地蔵霊場の第七番札所に定められ、多くの方々が参詣に訪れて、ご朱印帳を授けるようになりました。

尊恵僧正と地蔵菩薩

いまから千年前の永延年中(平安末期)、天台宗の僧である尊恵僧正が地蔵菩薩のお告げにより、多くの寄進を仰いで地福寺を建てたと言い伝えられています。比 企郡幾川村慈光寺の名僧忠尋に会うため川越街道を旅しておられた尊恵僧正は白子の宿まで来たときに急な病で 倒れてしまいました。仮死状態のままで三日が過ぎた頃、白衣の童子を引き連れた地蔵菩薩が現われ、 「尊恵上人は明朝生き返る」との お告げのとおり、北枕であった僧正が不思議にも頭を西に向け、程なく蘇生されました。右手にしっかりと地蔵菩薩を抱き「夢に閻魔王界 に入り法華経十万部供養の導師をした。 悪事を働いたものが閻魔王庁で罪科の軽重を定められる事も見てきた。」と、村人達に詳しく説明 したのです。地蔵菩薩が現れたとき、光の走った方向を百光、百向、瑞光などといって、 成増に今も地名が残っています。村人達から寄進 を受けて建てたお寺には、おつげに現われたとおりの地蔵菩薩を彫刻して安置しました。僧が生き返ったときに手を握っていた小さな一寸ほどの 地蔵菩薩は、 その木像の体内に安置し、長く寺の本尊としたと言い伝えています。現在本堂のご本尊である阿弥陀如来も、古くは地蔵菩薩であったという事です。

筆塚

御石神様

永延年中(平安年期末)に、当寺を創建した初代尊恵僧正が、地藏菩薩の霊告により奉安したものが、枕返し地藏尊であり、本堂内陣に安置されている、その本地仏の仂きをするのが、この石神大権現である。

鐘楼堂

鐘楼堂

日の入り、日の出の時間に鳴らさせていただいています。建立されたのは、昭和二十九年5月8日です。

本堂

本堂

一九九三年に再建された本堂は、木造建築で、一階は客殿、二階が本堂になっています。また、内陣の欄間には天女、外陣には雲龍の彫刻を施し、天井は支輪の折上格天井としています。また、冷暖房完備の施設です。

永代供養塔

永代供養塔

お墓参りできない人に代わって、あるいはお墓参りしてくれる人がいなくても、代わりに当山が責任持って永代にわたって供養と管理をさせていただくお墓のことです。建立は平成二十八年四月です。

一隅碑

一隅碑

比叡山を開かれた伝教大師・最澄上人が人々を幸せへと導くために「一隅を照らす国宝的人材」を養成したいと、熱意をこめて著述された「天台法華宗年分学生式」から、第253世天台座主・山田恵諦上人が、「一隅を照らす運動」を始めた事を記念して昭和六十二年二月に建立されました。一隅を照らそうとは、一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せ求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝であるという意味が込められています。

英霊供養塔

英霊供養塔

当山の檀家の戦没者慰霊祭の第七十回記念事業として慰霊墓所を現二十八世住職が平成二十八年四月吉日に改修いたしました。元は昭和二十一年十月吉日に建立されたものです。

千日堂

千日堂

当山第十代住職の珍海上人が、鐘楼堂建立を発願して、千日堂にこもり、檀家から広く浄財を募り、ついに立派な鐘つき堂を建設したと言われています。珍海上人が千日間おこもりをしたことから、現在鐘楼堂の下に建っている千日堂の名が残っています。